自分が病気になった時、身近な人が病気になった時、人それぞれに感じることがあると思いますが、願いは、早期の回復だと思います。
龍神様曰く、「病気きっかけであり、そのことを心がどう受け取り、どのように変化を遂げるかが重要です。」とのことです。
病気の回復を願うのは、大きく分けると病気を中心にして、二カ所の立ち位置があります。自分と他人という、立場です。
病気の回復を願う
人の身体は、カラダとしての自然な仕組みとして自己修復、自然治癒力を備えています。健全な方であれば、怪我をしても、病気になっても回復の方向に向かっていきます。回復力の差は、個人、年齢などに大きく左右されることもあり、回復の速さには個人差があります。人の身体は、不調があれば治す働きを持っています。病気とは、体の機能を正常に戻すための状態とも言えます。
今の医療は、100年前、1000年前と比べると素晴らしい進化を遂げています。現時点で治らない病気もありますが、病気から回復させる、生命を維持するための技術の進歩には、素晴らしいものがあります。
しかし、一部の方は、病気の回復を願うため、現在の医療の他に救いを求めることがあります。治らない、回復が遅い、様々な思いを抱える方はいます。
この治る、治らないということは、ご本人にとって、周囲の方にとってもとても大切なことです。ですが、そのためにできることは、精神誠意行っているという前提のもと、次のことを考えてみることも必要ではないかと思います。
病気になる、ということの考え方
自分として
健康な人が病気になっていくには、それ相応の時間経過がありますが、発症は、限界点を超えたときに、自覚、現象として、起きます。
このことは、病気が発症するまでに小さな変化というメッセージ的なもの、前兆があるものですが、それを見逃し続けることで、大きな現象としての病気となると考えることができます。
体の機能としては常にバランスを取ることを行ってくれています。
その変化に対する対応を後回しにしていくことで、症状は進んでいきます。
些細なこととして気に留めず、そのままなくなることもありますが、症状は進んでいくことがあります。
例えば、一般的な風邪も自分の身体の変化に早く気がつき対応することで、ひどくならずに済むことを度々経験します。
うがいをして、適切なバランスを考えた食事をとるようにして、休養をしっかりとることを心がけます。
「病は氣から」という言葉がありますが、このことは、わたしとしてはとても実感があります。
「氣」が衰えてくると少しずつ、カラダとココロに元気がなくなります。
深く考えすぎたり、ストイックになりすぎると、つまり、考え方や行動にバランスを欠いてくると、「氣」も衰えやすくなってきます。
そうすると、体調としての変化も出てきてしまいます。
逆に、体調の変調の兆しから、自分の考え方や行動に注意することもよくあります。
これは、そのまま進めばどうなるか?ということで、想像でしかありませんが、経験的に避けています。
人は、その時になって経験してみないと、実感という、その不都合さは味わうことができないので、避けられたこと、経験せずに済んだことになかなか実感が湧きません。
しかし、そこにしっかりと意識を向けるようになれるとそのことは、想像しやすくなってきます。
人は、経験しないと分からない、言葉だけではわからないものです。
「病気になる」ということは、自分の状態へのメッセージなので、それについて生活習慣はもとより、考え方など心の状態にまで考えを及ぼしてみることは、とても有意義なことではないでしょうか。
これらのことは、病気として軽度と言えるものかもしれませんが、重度の病気としても考えることもできます。
医者に処置してもらうまでの病気になった場合は、それまでの生活習慣や自分の考え方という心のバランスに大きな偏りを生じている可能性があります。
それまでの少しの変化を、積み重ねている可能性も考えられます。
癌など重き病気から奇跡的な回復をした方の言葉で心が魅かれるのは、
「食の変化」、「考え方の変化」です。
病は、「氣」から。
その氣を養う、心と身体に意識を向けてバランスを取ることが、とても大切なことに感じられます。
やはり「考え方を変えた」「食事を変えた」という違いが、よく挙げられます。つまり、「今までのままでは駄目」ということなのです。今までの自分がストレスを増長させ、病気になったわけなのですから、積極的に患者さんが「自分自身」を変える必要があるのです。(PRESIDENT onlineから)
仮に大病をした時に、「考え方」の変化は、とても大切なことだと思います。
「信じるものは救われる」この言葉も、心と身体にバランスを欠くことなくもたらすことで、ポジティブな、前向きな生き方となり、自分の「氣」にエネルギーを与えていくことになると思います。
自分でない人が、病気になる
自分でない人が病気になった時は、今まで書いたことを説明して理解してもらうには、タイミングと、伝え方がとても難しいことだと思います。
特に重病と言われる状態では、かける言葉にも氣を使う必要があります。
そんな時、どうしたらいいのでしょう。
現実的な看病やお見舞いは、でき得る限り行うことは前提として、医者でないわたしたちができることは、ないのでしょうか。
わたしの解釈では、「考え方」は、エネルギー場ということができます。
先に挙げた、病気に対する考え方も一つのエネルギーとしての状態だと考えています。
エネルギーは、共振できるものがあればそのエネルギー拡大し、強いものにします。
考え方も同調できれば、実践できれば、その人は、そのエネルギーになれます。
例えれば、先に挙げたことは、「病気に対する考え方」「心と身体のバランスを取り戻す」としてのエネルギーであるから、このことが自分として実践するということで、エネルギーとして共振していれば、そのエネルギーの状態にあるということになります。
エネルギーは、そこにあれば、強弱はあれども波のように広がっていきます。
静かな水面に投げ入れた、石のように波紋が広がっていきます。
病気に対する、ある考え方というエネルギーを自分で持っていれば、そのエネルギーは、近しい人には、言葉をなくしても伝わっていきます。
神様のエネルギー
神社でお札、お守りをいただくのは、神様のエネルギーをお札、お守りとしていただき、自分の生活空間などの場に持ち込んでおきたいということです。
神様は、人を超越した神秘の存在として感じ取っています。
人の思いとしては、神様のエネルギーがあることで、神聖なエネルギーがあることで、邪としてのエネルギーを寄せ付けないということになります。
神聖なエネルギーは、人の意識を良き方向に向かわす方向性を持っています。
エネルギーは、共振し、共鳴することを知っています。
共振し共鳴した結果を神様のご利益として語ります。
エネルギーの共振共鳴を感覚で受け取っています。
なぜかこの人がいることで、空気感が良く、安心できるということは、相手に対する好感もあるでしょうが、そのエネルギーが、自分に、その場所に合っているということとも言えます。
会社などでも、目に見えて仕事ができるわけでもないのに、その人がいることで場が和らぐことがあります。その人がいないことで、人間関係がギクシャクすることがあります。
わたしたちは、無意識にエネルギーを感じ取ります。
わたしたちは、エネルギーの存在でもあるので、互いに影響し合います。
病気の方にできること
病気の方にできることに話を戻します。
考え方に変化を起こし続けている人、病気に対する前向きな考え方を持っている人として、いう、言わない、に関係なく、エネルギーとしての貢献をすることはできます。
逆に、こんなことを知っていると、自分がその状態でないのに言葉を発することで相手が反発してしまうことがあります。
エネルギーがその状態になっていないのにうわべの言葉として発することでこのようなことが起きます。
エネルギーは、共鳴します。
言葉は、ときに相手を深く傷つけてしまいます。
相手の状態には、心遣いがとても大切です。
体が弱っている時は、なおさらです。
現実的な看病やお見舞いは、必要であれば、でき得る限り行うことは前提として、医者でないわたしたちができることは、
「病気に対する考え方」このことに、自分自身が変化を起こし続けていくことが、病気の方にできることではないかと思います。
「病気は、メッセージである。」ということは、一度は聞いたことがあるかもしれません。
ただ、そのことに対して、前向きに行動しているかどうかが大切です。
一つの方法として、取り入れてみてはいかがでしょうか?
子を持つ親としての、立場であれば、少し違うかもしれません。
結果的に子供は、自ら選んで、「親への愛」を引き出すために、病気になることもあるそうです。
子供としては、自発的に考え方に変化をもたらすには、早すぎます。
子は、親のエネルギーの加護を受けながら成長します。
親としての、考え方の変化を起こせば、子供には大きく影響をしていきます。
子どもに、神経質になりすぎるのは、バランスを欠いたことですし、無関心であることもバランスを欠いたことです。
その子の個性を大切にしながら、様々に意味で、バランスを大切に接することが重要です。
子どもにとって、充分なケアをすることと、人として自分の状態をしっかり省みて、親子共々、心と身体が変化していくことは、病気回復への大切な考え方だと思います。
自分としての変化が重要
自分自身のエネルギーが変化することで、深くかかわっている相手の病気としての状態は、大きく変化する可能性を持っていると信じています。
エネルギーは、共振、共鳴します。
仮に病気に変化がないとしても、病気の状態を目前にして自分が変化することで、必ず何かしらの良き変化が生まれてきます。
自分の変化が、病気の状態の方への変化の選択肢を広げます。
時間としての、経過はあるかもしれませんが、人の心、意識の成長は、現象を変化させます。
物事の捉え方、現象の捉え方の変化が起きてきます。
深く、広く、観る、ことができるようになってきます。
変わる必要を強く感じるときには、相手に変化を求めるのではなくて、まず、自分自身が変化することはとても大切です。
相手に変化を強要してはいけません。
病気の方に、現実的に役に立ったと言われることがなかったとしても、自分として現実的にできる精一杯を行動し、関わるわたしの変化が起きることは、病気になった方にとって、深いところでの歓びになっていると信じています。
これが、龍神様の云う、
「病気はきっかけであり、そのことを心がどう受け取り、どのように変化を遂げるかが重要です。」
ではないかと思っています。
このことは、関わる人すべてに当てはまることではないでしょうか?
ひとつの考え方として、実践してみるのはいかがでしょうか?
病気をされている方を前にしては、心苦しい話なのですが、病気としての回復がすべてでないということも龍神様よりお伝えいただいております。
病気という状態を選択することで、存在絵の貢献として、様々な役割をするタマシイは存在します。
病気平癒の護符は、龍神様の神気のエネルギーを護符としたもので、神聖なエネルギーを纏っています。邪気を遠ざける、神氣のエネルギーを発しています。そして、病気の方の考え方の変化、関わる人の考え方の変化を後押しするエネルギーを纏っています。
龍神護符は、自ら精進する方にお力添えをしてくださいます。
龍神護符は、ご依頼者のために手描きにて描く、特別な護符です。
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