宗教や神様への信仰が厚い方は、その教えの中に感謝を説かれることがあります。
「感謝の気持ち」を大切にしなさい、と。
少し前なら、信仰が厚い方というわけでもなく、一般的にもよく言われていたことだと思います。
わたしは、今まで感謝ということを特に意識することは少なかったように思っていましたが、思い起こしてみると、感謝にまつわる、「想い」は、自分の中にもしっかりとあることが分かります。
幼少期の感謝の気持ち
感謝することは大切です。
大人ならよくわかっていることだと思います。
「感謝しなさい!」こどもの頃には、よく言われたものです。
でも、感謝する意味がよくわからなかったこどもの頃、
「感謝しなさい!」と頭ごなしに言われたら適当に流していたような気がします。
しかし、あの人は、こういう思いで、こんなことをしてくれたので「感謝しなさい」と言われてはじめて、「感謝する」ということをおぼろげながら理解していたような気がいたします。
感謝することは、とても大切だと思いますが、
大人で考えると、大人が誰かに言われて感謝するのは、少し変な気がします。
相手の気持ちは、こどもの頃にはなかなか自分の事として考えることができません。
経験を重ねて、「こういう時に人は、こう思う」、「こういう時には、自分はこう思う」いくつも経験して、やっと他人の気持ちに理解が及んできます。
こどもの頃は、そうやって、人の気持ち、感謝というものを理解するのだと思います。
その経験が少ないまま、大人になることで、感謝という心を汲み取ることができないのではないかと思います。
大人にとっての感謝
経験から言って、父母の愛、祖父母の愛、純粋に自分のことを大切に思ってくれる人の行為には、それが、迷惑であれ、行き過ぎであれ、感謝に値する思いだと感じられます。
自分にとっての望む形が少し、または、大分違うだけです。
愛は、見えにくい愛というのも存在します。
見守る、口を出さない、手を出さない。
見えない愛ですが、その人にとってより良い方向になると思えば、見えない愛として接します。
接しないことさえあるでしょう。
その立ち位置を理解できるまで、感謝はできませんが、理解したとき、長い年月を経た後、自分の成長が飛躍的に起こった時には、心が震える思いになることがあります。
本当にその人のことを心から大切に思うとき、自分の行為を相手にわかって欲しいということとは無縁になるものです。
相手に対して、行った行為に対する何かを求めることはしません。無償の愛と呼ばれるものですね。
誰かが相手に対して「心で感謝する」、このことは、相手の気持ちに対して行うのであって、行為そのものへの感謝ではありません。
行為そのものへの感謝は、即物的な要素が多分にあります。
人が他人の心に対して感謝できる、そのことこそが大切なことだと思います。
人には、人としての経験を通して、他者の心を推し量ることができます。
感謝には、目に見えてわかりやすい、与えられた物や状態に対すること。
そして、目に見えにくい、相手の心に対することがあると思います。
例えば、ご先祖への感謝
ご先祖に対して感謝する、ということがありますが、物質的なことであれば、家や土地、物質的な様々な物や知識、家柄、家族として引き継がれたものが思いつきます。
両親なら生まれたときから生活を共にする方が多いので、相手の心に理解が及びやすいですが、ご先祖となると、距離が近くてもですが、遠ければなおのこと、「心」を知る機会は少ないでしょう。
その状況で、「ご先祖への感謝」ということ自体、難しく思えてしまいます。
ご先祖の残してくれたものに対して、時に人は、ありがたくも、迷惑にも感じてしまうことがあります。しかし、時系列で言えばご先祖は過去です。
「過去」は、認めようは認めまいが、わたしたちには変えることができないものです。
わたしたちは、今を生きています。
「今」は、自分の選択で変えることはできますが、過去を変えることはできないのです。
確実に言えることは、ご先祖があったから今の自分がいる、これは紛れもない事実です。
生命の歴史です。
過去に位置する、ご先祖は、今の自分という存在の礎となっている存在です。
「ご先祖がいるから、わたしがいる」。
わたしがあるのは、ご先祖がいるからです。
ご先祖の顔を知らなくても、これは、感謝しかないですよね。
しかし、「わたし」を否定している状態であれば、それは、「感謝」に届かないかもしれません。
ご先祖がどういう状態であれ、ご先祖に対する感謝の気持ちが心の奥底から沸き上がるのは、ご先祖の心に触れたときではないかと思います。
先に挙げた、家や土地、物質的な様々な物や知識、家柄、家族として引き継がれたもの、目に見えてご先祖が残したものに感謝の気持ちが沸き上がることはあるでしょうが、より深くの感謝となると、ご先祖の心、「見えない心」、「ご先祖本人にも気づいていない心」となるのではないでしょうか。
「見えない心」、「ご先祖本人にも気づいていない心」というのは、自分の感性の中で受け取ることでしか、その深みを知ることはできません。
微細な感覚の中にこそ、心震える心はあります。
その感性に行きつくには、人の心を知る、自らが深い愛を持つ感性を備えなければ難しいでしょう。
その感性は、多くの経験と愛に向かう意志なくしては辿り着くことは難しいと思っています。
「ご先祖本人にも気づいていない心」
このことは、自分の感性の中で広げていくことでしか理解できない、ご先祖から受け継いでいるエネルギーの継承についてです。
子は、親のエネルギーの加護の元、成長していきます。
親の考え、感じ方は、ある種のエネルギーと理解できます。
「子のエネルギーは、親によく似ています。」
子は、受けたエネルギーをどのよう状態に変化させていくのか、選択し、人生を歩んでいきます。
「親のようになりたい。親のようになりたくない。」選択は、様々です。
親子関係だけでなく、家系としてのエネルギーもあります。
そのエネルギーは、ご先祖の傾向性とも言えるもので、わかりにくくとも確実に引き継がれていくものです。
親子の関係のように、それを享受する、または、発展させていくことが、子孫には可能です。
そのエネルギーの系は、様々な状態のものがあるでしょう。
その中で、何を発展させ、何を断ち切るのかは、子孫の選択となります。
子孫が先に進もうとするときに、そのエネルギーが壁となったり、後押しとなったりします。
このことに気づくとき、先祖への感謝の気持ちが沸き上がることがあります。
自分と真摯に対峙したとき、広い視点で自分自身を感じ見るときにこの感覚は生まれてきます。
人には気づきにくい無償の愛
人に対して、常に愛を向けてくださる様々存在があります。
それは、人以外、目に映るもの以外に感じるものとして様々な存在があると感じています
神、自然、宇宙、感覚は広げていくことができます。
感性は、ある人にとっては、「思い込み」と言われるかもしれません。
しかし、その感性があって初めて出会える、人、存在があります。
方向に間違いがなければ、バランスを崩さなければ、深い愛という場で歓びに満ちた出逢いが訪れます。
感謝、このことの実感が薄くとも、心にしっかりととどめておきたい、心の位置です。
その感謝のエネルギーがいつも心にあることで、様々な思いを受け止め、次につながっていきます。
感謝に値する気持ちは、自分の中でしか広げることはできません。
龍神様曰く、
「感謝の気持ちは、愛のエネルギーを循環する大切な要素です。
意外かもしれませんが、感謝のエネルギーは、愛を送る者たちにエネルギーを注ぎます。
誰かに対して、何かに対して、愛のエネルギーを向けることは、送り手と受け手の関係となりますが、どちらが優れているということではありません。
ただ、位置が違うだけです。
親が子を育て、子が親を育てる。どちらも愛を育みます。」
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