龍神とは、と聞かれて人それぞれにイメージなり、思い込みはあると思います。
龍神とは?と思い、調べてみると、世界各国で龍にまつわる話がはあり、インドではナーガ、中国では竜、西洋ではドラゴンなど様々に存在するようです。龍のイメージの元である現存する生き物としては、蛇、トカゲ、ワニなどの巨大な爬虫類をイメージの起源としているようです。
それぞれの国や地域で伝承される話がありますが、私自身は、その道に詳しくはありませんので、わたしの感じ取っている、龍神とは?について綴っていこうと思います。
目に見えない、龍神
わたしには、龍神は見えません。でも、龍神が見えるという人は、数名知っております。龍神はどんな姿をしているのか?ということには、大して興味がないからかもしれません。
人の世界で龍神としてあらわされるのは、つなぎとしての現存する生き物が必要なのはよくわかります。わたし自身は、龍神としてのエネルギーは、精妙かつ膨大な複合エネルギーとして感覚的に受け取っていますので、その一部のエネルギーの特色を人の世界でカタチに現すと、蛇やトカゲ、ワニなどの姿を借りて現われるのだと思います。
蛇には、脱皮を繰り返すという、転生を創造させることや大きな動物さえ丸のみにするという、人にとっては恐ろしくもある食性があります。トカゲもその容姿から、ワニもその凶暴性から、人は恐れを想像します。
龍神には、人に立ち入ることができないような、巨大な力、畏怖を感じさせるものがあるのではないでしょうか。
龍神は、水に関係がある?
龍神にまつわる話を聞くと、水に絡んだ話が良く出てきます。池、河、川、湖などで水龍としての話がたくさんあります。
これも、爬虫類系の水との関係性が特色としてあると言えなくもないのですが、わたしの感覚的に言うと氣がよい、俗にいう、マイナスイオンが豊富ともいえる場所であることが多いのです。もちろん、時々にその場所の氣は、変化します。神社の神域などは、必ずと言っていいくらいに清らかな水の流氣があります。穢れを流す役目をしています。
雨が嫌いという人も多いかと思いますが、わたしは雨が好きです。澱んだ気を流してくれるという体感があるので、エネルギー的に疲弊してしまっている時には、ありがたくなります。重い体が軽くなります。
龍神は、雨を司るという話も各地にあります。雨乞いを龍神様にする。遠い昔から行われていたことです。この点は、人の力ではどうしようもできない、自然の力を龍神様のお力として投影していることの現われなのでしょう。川が氾濫すれば、人の営みは、一瞬にして失われることもあります。自然への畏怖と龍神様への畏怖。それは、人の力が到底及ばない事への畏怖です。
龍神は、神獣?
龍神様が神獣として例えられることがあります。龍神に「獣、けもの」は、到底当てはまらないと思うのは、わたしだけでしょうか。獣に含まれた意味は、人にコントロールができない、としての意味合いが見えてきます。龍神の容姿に表される、荒々しい姿は、神獣としてのお姿なのかもしれませんが、私的には、あまり好きではありません。
人の恐怖、畏怖が、龍神を表現したらあのようになるのでしょう。
そして、地球での荒いエネルギー下での姿としては、あのように表現せざるを得ないのかもしれません。
人の歴史を紐解くと、人にとって、理解のできない強大なものには、時として恐怖になり、攻撃の対象にされてきています。
龍神様とお稲荷様
狐と龍。どちらも神獣としての意味があると思っていませんか。どちらも、お祀りされています。
狐は、人を化かすと言われますが、その真偽は?
わたしは、つい数年前まで、狐的なエネルギーは、避けてきました。なにか、わたしの好みに相容れないものを感じていました。
何となく、わかっていたのは、妖狐と呼ばれる狐には、人のエネルギーを好む性質のような感じがあったからだと思います。人の欲、妬み、嫉み、マイナスともいえるエネルギーに同期しやすい性質があるような気がしていました。
しかし、ある時を境にそれは、人と狐のエネルギーの循環方法の一つ、共存関係だということがすんなりと腑に落ちたことがきっかけでした。
ある方が、すごい勢いで事業に発展をもたらしており、それは、本人が同意した上での狐さんの協力(ある種の契約みたいなもの)があってのことだとはっきりしていました。パーティー会場でとられた写真を見せていただいたときに気がついたのですが、その方の手が、なんと、狐さんの手の形に!!!
でも不思議なことに、嫌な感じではなく、かわいいとさえ思ってしまう自分にビックリしてしまいました。今まで感じていた、狐さんに対する否定にも似た感覚はなくなっていました。狐は、人との共存の仕方を知っており、ある意味でエネルギーの循環を行っているだけなのだと、理解できました。
さて、龍はというと、、、
龍神とはいかなる存在なのか?
わたしが感じ取っている龍神は、人に関わることはほとんどありません。龍神もすべてが全く同じというわけでなく、人のように様々なエネルギーの特色があります。龍神というくくりで言えば、人に関わるというより、自然のエネルギー、エレメントを司るような感覚があり、そのエネルギーの精妙さと強さは、狐とは比べようもない、エネルギー次元での領域の違いがあります。
動物も植物もすべては、意志してそのカタチを維持します。そのカタチの維持には、大いなる愛の力がなくては、ありえないことと理解しています。雨であれ、風であれ愛の力を元に、意志して、雨となり風となると理解しているのですが、そこには総体として(動物で言えば、動物の姿)の意志は、ありません。その総体の役目をしているのが、龍神の一つの役目だと感じています。(地球は総体と言えるでしょうが、龍神ではありません。)ですから、人の世界では、龍神と称されたとしても、それは人の世界での例えであって、エネルギーの質の高さと精妙さから言って、いかようにも変化することがあります。必要に応じて、エネルギーを変化させることができます。
龍神に畏怖を感じることがあるのは、愛のみの存在であり、その愛を人は、厳しいとか、畏怖を感じたりするのではと思っています。愛情であれば、人にやさしく感じますが、愛のみとなると、人にとっては、厳しさと恐ろしさを感じてしまうのは、容易に想像できることです。
龍神様につながることができる方は、その厳しさはよくご存じだと思います。ただ、ある人にとっては、厳しいともいえる龍神様に親近感を覚える人が多く存在するようにはなってきているようです。わたしとしては、とても素敵な変化だと捉えています。
「護符を描け」なぜ、龍神様がそう言うのか?
龍神様が、なぜ護符を描くようにメッセージを送ってくださったのか?
それは、人の世界へ龍神のエネルギーが必要とされていることは間違いありません。それほどに今、変化の時を迎えているようなのです。人の世界のことは、人が主軸になって活動しなければなりません。人の次元は、人を通さなくては、人の意識に変化が起きません。様々な次元で協力はあるにせよ、人の世界では、人が主となり事を進めるのが宇宙の法則の一つです。人を通さなくては、どんな素晴らしいエネルギーも人の世界には、変換できることができないのです。
エネルギーが精妙でその質が、素晴らしくなればなるほどに、そのエネルギーを人の世界に変換できる人は、少なくなります。人を介したとき、どんな素晴らしい人であっても、ほんのわずかの思い込みや人しての意識的な関りをすることで、元のエネルギーから人の世界への変換時にほんの僅かの変化が起きてしまいます。元のエネルギーの質が高ければ、精妙であればあるほど、人の世界でのほんの僅かの違いが、エネルギーとしては、多大なズレまたは、全く別のものとして変換されてしまう様なのです。龍神のエネルギーを人の世界に変換するには、それほどに精度が必要なエネルギーでもあります。
龍神のエネルギーを生活に取り込む
龍神のエネルギーを人の世界に取り込むことで、人はより豊かな人生を送れることになります。そのベースは愛なのですが、龍神の愛のエネルギーは、様々に変化し、わたしたちを手助けしてくれます。それが、恋愛であれ、受験であれ、守りであれ、とてもパワフルな質のエネルギーです。その愛を受けるには、自分としての精一杯の姿勢がとても大切になります。その姿勢に、呼応するように龍神のエネルギー、龍神のご加護を大いに受けることになります。
今まで人に関わることがほとんどなかった龍神が、人を通して関わる選択をしてくれたことに、わたしとしては、大きな歓びをもって護符を描かせていただいています。
龍神の愛を、龍神とのご縁を繋ぐ龍神護符。
是非、みなさまにお届けしたいです!
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