人生の中で色々なことが起こりますが、
「良くないことは起こってほしくない」
と思うのは当たり前のことだと思います。
魔除けの護符は、昔からありますが、
そもそも、魔とはどういうことなのでしょうか?
魔の意味、麻と鬼
魔とは、お釈迦様が悟りを開くため瞑想に入ったときに、悟られては困ると瞑想を妨げようとしたのが、煩悩の化身が「マーラ」といわれるようで、魔羅と書かれるそうです。
魔、「マ」は、サンスクリット語でマーラの音を短縮したものとされるようです。
面白いことに、この魔という漢字には、「麻」と「鬼」の字が使われています。
日本では、麻は神聖なものとして大切に扱われており、日常的にも汎用されていた植物です。
しかし、第二次世界大戦後には、日本では、神社など以外で日常的に見ることはなくなってしまいました。
「麻」の下に「鬼」、
これは、仏画などで描かれている鬼をひれ伏す「神」の描写で書かれている絵を思い出させてくれます。
「マ」に「魔」の文字を当てているのはさすがだなと思います。
そういう意味では、「魔」は、捉えようによっては、悟りを開くためには、重要な役割を与えられているように思えます。
「魔」は、悟りを開くために、苦難を超え、悟りを確たるものとするための重要な役割となります。
「鬼」は、ドラマの中での悪役を演じてくれているように思えます。
人は、苦難を超えたとき新たな道を開きます。
その苦難には、様々なことがあるでしょうが、苦難が大きければ、超えたときに開かれる道には、素晴らしい景色が広がっています。
こう考えると、「魔」とは、考えようによってはとても素晴らしいきっかけとすることができます。
魔を引き寄せる
物の見方は、人それぞれにあります。
ある人にとっては、不幸に思えるけど、ある人にとっては幸せに思える。
同じことが起きたとしても、考え様によっては、幸にも不幸にも映ります。
そして、ある出来事が最初は不幸に思えたということでも、後に幸せのきっかけとなっていたと思うこともあり、出来事が、即、幸せや不幸に結び付かないこともあります。
龍神さまは云います、
「物事に幸も不幸もない、どのように感じるかはあなた次第です。」
魔を寄せ付けない方法、魔から身を守る方法、魔除け。
一般的には、魔を害のあるものとして考えるとこうなります。
しかし、出来事は、きっかけであり、どのように感じ取ることができるのかが大切です。
感じ方次第では、「魔」=「悪いもの」という図式は、必ずしも当てはまらなくできると思います。
不安の中で生きる時、起きる全てのことを良くない方向に結びつけてしまうものです。
「わたしは、不幸である。」この立位置から、全ての出来事を捉えると望まぬことは全て、不幸に結びつけてしまいます。
あなたは、意識をどこに向けて生きていますか?
幸せになりたい、悪いことが起きると嫌だ、
などと不安に意識が向いていると、起きる全ての物事を不安に結びつけてしまいます。
不安の連鎖を断ち切るには、不安になっている気持ちの切り替え方が大切になります。
「こうならなくてはいけない」この考え方で行動したときに得られる結果は、目標の達成か不達成の他にはなく、達成できなければ、不幸と感じてしまいます。
自分の感覚に縛りを与えてしまい、過程も結果も十分に味わえず不足感に意識が集中してしまいます。
目標達成のための努力は、とても大切ですが、そこに向けて努力する時の最初のこころの持ち方が大切です。
「足らないから頑張る」も良いですけど、「十分にあるけど、さらにこんなことができるといいな」と努力するのが良いのです。
前者は、無いから頑張る、後者は、有るけど頑張る。
意識のあり方が違います。
「無い」=マイナスイメージから始めるのか、
「有る」=プラスイメージから始まるのか、
結果的な幸福感はまったく違いますし、過程にも成果にも大きな差が出ます。過程で不足感を感じながら行うのか、楽しみながら行うかの違いが出ます。
楽しくなければ、続けること自体が楽しくなくなりますが、楽しみながらだと続けることも楽しくなります。
心の声を聴くことが大切です。
結果的に幸福感を得られるのは明らかに後者の「有る」から始まった場合になります。
魔を引き寄せてしまう方には、「無い」「不足感」から始まる考え方をしやすく、日常的な考え方に魔を引き寄せるような考え方をしがちです。
「魔から身を守るため」と考えるのは、その奥に魔を引き寄せようとする気持ちが潜んでいることがあります。
「魔」を味わいたくないと思うことの底には、魔=不幸という、魔の存在を自分の内に潜ませながら、事が起きたときに「不幸を感じる」仕組みを作り上げてしまいます。
「魔から身を守るため」と考える時は、幸せである自分が確かに存在している状態で考えた方がよいのです。
こうすれば、出来事は、「魔」=不幸には結びつけにくくなり、良き方向で物事を捉えるようになります。
最初の意識の設定は、何かを行うときには意図して幸福感を持って設定することで、前向きに、建設的に事態を感じ取れるようになります。
魔から身を守る龍神護符
一般的に魔を寄せ付けない護符は、神氣のエネルギーをまとっています。
それは、古来日本から、神氣のエネルギーは、人を幸せにするご利益の有るものとしての感じ方が有ります。
神氣のエネルギーは、お釈迦様に近づく事ができなかった「魔」マーラのように、魔を寄せ付けません。
昔から共鳴・共振の理は、昔から感覚的に理解されていて、同質のエネルギーは共振共鳴し、エネルギーの質が違えば、近づく事さえできないと理解されていました。
「類は、共を呼ぶ」=共振。「同じ穴の狢」=共鳴。
ですから、より良いエネルギーと共振共鳴できるようにと、神社など神氣の宿る場所に出向き、自らを神氣のエネルギーに浸らせ、ご利益と称して護符、お守りなど神氣のエネルギーを生活空間に取り込んできました。
事実、神氣のエネルギーとしての物は、人の生活域でその効果を発してくれます。
神氣のエネルギーとしてのものは、生活空間の中でエネルギーを発し続け、その強弱はあれども心地よいと感じる正常な空間へ貢献します。
魔除け龍神護符には、龍神様の神氣のエネルギーの他に、魔としての捉え方を良き方向に後押ししてくれるエネルギーを含みます。
「魔」を良き方向に理解する「考え方」をサポートするエネルギーを持ちます。
「魔」としての役割を理解する方向でサポートしてくれます。
こころの持ち方を「今、幸せである」と定められれば、龍神護符のエネルギーに大きく共振共鳴できる状態と成れます。
結果、「更に、幸せ」を感じられる事に成るでしょう。「魔を遠ざける」ことになります。
人の思いのエネルギーは強力です。
出来事を幸せにも、不幸にも変えてしまいます。
どうせなら、自分自身が幸せである、という事実から始めましょう。
「物事に幸も不幸もない、どのように感じるかはあなた次第です。」
幸せであるエネルギーであり続ければ、そのエネルギーの輪は、
四方八方に広がり、共振・共鳴し、幸せを引き寄せる事に繋がります。
幸せの尺度に他人は関係ない
幸せでないと感じる方の中には、何かにつけて他人との比較をしてしまう方がいます。
「世間で言われる幸せ」を自分の尺度にしてしまう方がいます。
物が沢山あっても、お金が沢山あっても、地位や名声があっても、幸せでない方はたくさんいます。
欲は、向上心に必要ですが、人と比べる必要はありません。
「物事に幸も不幸もない、どのように感じるかはあなた次第です。」
魔を寄せ付けるきっかけとなるのは、不平や不満、嫉みや妬みです。
他人と自分を比較することから始まり、自分自身の足らないところに焦点を当てて評価してしまう傾向性。
誰かの評価で生きてしまうことです。
同調し、共鳴し、「魔」が大きくなります。
幸せであることが自分の中ではっきりしている方にとっては、あまり縁のないことですが、そんな人でも不平や不満はの感覚を覚えることがあると思います。
しかし、その感覚は「いいな~」と一時的に通り過ぎる感覚です。
素直にそれを欲するなら、「わたしも!」そのための努力を幸せの追加のように始めます。
不平や不満の感情にいつまでも留まっていることはしないものです。
他人との比較は、参考であり、自分の感じる良き方向につなげていきます。
どう感じるかは、自分次第なので、
幸せである自分がいれば、そして、日頃から、良い氣の中で過ごすことを心がけることで
「魔」と引き合うことは少なくなっていくでしょう。
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